印鑑のツール

文化祭でのZ先生の活躍と人気はめざましく、夏の全学合同合宿でかき鳴らしたギタ─の弾き語りの再演もさることながら、協力した演劇部の舞台装置毛父兄の間で評判になったし、何といってもZ先生がジーパン姿で訪れる展示場には女生徒たちが花が咲いたように群れた。
またZ先生がカウボーイハットをかぶってフォークダンスの輪に入ると、踊り方の奇抜さ、運動神経の良さとで何の変哲もないフォークダンスが一つのショーのように見えた。
 A君はもう精根つき果たしていた。
加えてA君がもう一つ顧問をしている国語クラブの方にはまったく人気が集まらなかった。
暗幕をはって照明と音響に凝り、創作詩を朗読したいという要望が部員の間で圧倒的に強かったのを、めすらしくA君がまだ中学生々という身分を強調して授業の延長のような研究課題、「宮沢賢治の生涯」を押しつけたせいであった。
すくなくとも人の集まらない展示場で所在なく、おもしろくなさそうな部員たちの表情はA君を非難しているかのように見えた。
A君は創作詩の指導などできなかったのである。
国文学の出身ではあったが詩とか小説の創作活動に興味のひかれたことのないA君は、まして良し悪しはわからなかった。
文学者の生涯なら文献を拾い集めてくるだけだからメモ魔、下調べ魔のA君にも指導はできた。
A君が創作詩の朗読を退けたのは、指導への自信のなさがつのったためと、生徒の前に恥をかきたくない一心……ただそれだけだった。
教育的配慮などとってつけただけのことだった。
しかし、フクを開いてみてこうもウケないと、A君は自分自身の欠陥を鋭く指摘されたような気もした。
はっきりZ先生と優劣をつげられたような気がしたのだった。
文化祭は準備の日をふくめて三日間つづいたが、この間A君はうとうともできず一睡もしていなかった。
 そういう心身の限界状況の下地もあったのかもしれない。
が、それにしても何故、A君はZ先生に内面の憎悪をぶつけなかったのか。
はさみをふるう相手が女生徒でなければならなかったのか。
犠牲になったのは、演劇部の部長であるY子であった。
おおかた後片づけが終わった後、Y子はA君に呼ばれて、大道具、小道具のしまってあるステ─ジの下の物置場へと出向いていった。
はじめA君は笑っているように見えた。
Y子はごく単純に今回の文化祭ではまだできて間もない演劇部の評判が一番良かったし、お客の入りも良かったのでA先生も喜んでいるのだ、と思ったという。
で、たいした考えもなく。
「成功はZ先生の背景画のおかげもありますね。
T先生もほめていらっしゃいました」といった。
そのとたんY子はA君にとびかかられてねじ伏せられていたという。
A君がいかに非力でも女生徒にはまだ力で負けない。
Y子が声を出さなかったのは驚きの余りもあるが、A君のY子の身体にこめている力が何とも必死で凶暴であったことと、A君の顔に涙のあったことの二点だという。
気丈なY子はそれらを見きわめて、声を出したらかえって殺されるかもしれない、と思ったようだ。
それでも近くにあった布を裁断する鋭利な裁ち鋏A君の手に握られてふりかぶってきた時は、もう駄目だと思って、Y子は恐怖のあまり失神した。
 三〇分ばかり後、他の演劇部員はうずくまって声を出して泣いているA君と、セーラー服が胸元からスカートにかけてずたずたに切り裂かれ、下着が丸見えになって倒れているY子の姿を発見した。
A君がY子を性的にどうこうしたという形跡もまた切傷にしてもかすり傷一つとして発見されなかった。
理由を聞かれるとA君は、「T先生がZ先生をほめたとY子がいったのでカッとなった」とだけいいつづけた。
かなり冷静になっても同じだった。
Z先生への例の憎悪については寸分も触れなかった。
 結局、この事件は警察には通報されなかった。
無傷ではあったが心理的ショックの方を重く見て、Y子は学校から即病院に運ばれ、約二週間入院した。
それをY子の両親は学校側の誠意と見た上に、このような不始末がたとえ娘が被害者でも世間に出ては将来にかかわると判断したので、むしろ積極的に学校側の意向に同意した。
いかにもこの名門女子中学らしい処置であり、そこを好んで子女を入れる父兄の対応ではあったが……。
 A君は学校側から話だされる前に、事件を起こした翌朝みずから辞表を提出した。
それっきりいくら残務整理のため学校に一度は出てくるよう、学校側が要請しても出てこなかった。
働いた日割の給料さえも取りに来なかった。
辞表を提出した時、A君はただひと言ひとりごとを呟いた。
 「母が可哀想でなりません」 Y子を案じる言葉もT先生に世話になったことを謝する言葉もついに出なかった。
T先生はA君が一度としてY子を見舞うことがないので(Y子の前でZ先生をうかつにほめた自分に責任を感じていたから)、Y子をしばしば見舞った。
その行為がかえってT先生の行為の後ろめたさ故と周囲にうつった。
T先生は自分とA君、Z先生との間に男女間の三角関係があり、しかもZ先生とはつづいているかのように取沙汰され、あたかも真実のようにいわれているのを耳にして、呆然とした。
単身赴任の夫という設定もT先生のスキャンダルを創り上けるにはうってつけであった。
T先生はそれについて何の弁明も釈明もせず、黙って辞職した。
これ以上うわさがエスカレートして夫の耳にでも入り、家庭そのものが崩壊されてしまうのを何より怖れたからである。
何の関係もないZ先生の立場が窮することを案じたふしもあった。
 もちろんY子は、その後は元気そのものに通学しているが、T先生の配慮の辞職でZ先生も相変わらず学園の人気者である。
 辞職後一年、A君は現在職にはついていない。
兄同様アルバイトで食いつないでいる。
近々、長くアルバイトをつづけている某広告代理店が、正式社員にしてくれるといっていると報告して、喜んでいた。
兄とくらべてA君の多少なりともの特徴は同じアルバイト先ですこしは長くもつことなのだが、長い目で見て相手先にはA君の方が甚大な迷惑をかける要因を多くもっている。
現在A君の顔色は良く体格も以前よりは厚みを増したようだ。
だが、相変わらずのメモ魔である。
今のA君を見て登校拒否とか、例の事件とか出校拒否とかはとても結びつけがたい、さわやか青年である。
うっかり口にすれば優れた人への悪意そのものと受けとられてしまいかねない。
A君の本質はやはり変わっていないものと思う。
職場でA君と関わり合って、むしろ人間的な好意をもってつきあったがために犠牲になったT先生のような人を生涯、A君は何人つくるかわからない。
困るのはA君がそれをすこしでも悪いことだと思っていたことである。
悪くするとA君はもう、T先生のことも、Z先生への過剰な悪意も、Y子の事件もすべて忘れているのではないか。
 A君のような人がうまく社会に適応して生きていって欲しいと思う一方、やはり多くの人たちがA君のような人に職揚で出会ってまきこまれないことを願ってやまない。
A君のような人が増えている、だからこそ……。
その意味でいって、何かあっても家族と無関係でありつづけるA君の父親はかなり利口な人かもしれない。
しかし、世のなかにはまたこういった利口な父親がふえすぎたのかもしれない。
それでA君のような人も増える。
何ともおかしな因果関係ではないか。

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